久比岐の里について
ごあいさつ
皆さんこんにちは!
久比岐(くびき)の里です。
新潟県の南の端で、霊峰米山が一番美しく見えて田んぼの真ん中を「ほくほく線」が走ってます。その陸橋前で撮影しました。NHK大河ドラマ「天地人」の舞台となりました春日山城はすぐ近くです。白鳥が飛来する湖沼がたくさんある自然に恵まれた所です。
久比岐の里のなりたち
上越市で2番目上越の農事組合法人「久比岐の里農産センター」が誕生したのは昭和61年5月1日でした。
8月半ばには事務所を兼ねた加工場が完成してすぐに営業体制に入りました。当時は一村一品の言葉もなく、稲作単作地帯ではめずらしい取組だったのです。
以来今年で35年目になりました。子供達も成人して2夫婦とも孫が誕生しました。お客さまに支えられての35年でしたがこれからも宜しくお願いいたします。
新潟の郷土食
「禽獣はくらい、人間は食べる」と言われています。同じ摂取行動でも、動物と人間の食べ方の異なるゆえんはここにあります。
食べることは、気分、感情に左右される面が非常に多く、器(うつわ)、色合い形、盛りつけ、食卓など、工夫させたり、ハレとかケの食事に変化をつけてみたり、いろいろな事を考え出させてくれます。食生活の文化的側面とはこんなことではないでしょうか。
南北に長く、海と山に囲まれた新潟は、食物に恵まれ、これを加工した土地土地の料理や保存食が郷土の味としてたくさん今日に伝えられています。そんな故郷の食文化を生活の中に取り入れ地域の食文化として大切に次代に伝える役目を担っていると思います。
アクセスマップ
久比岐の里までのアクセスマップ
北陸高速道路 柿崎ICで下車して新井柿崎線から車で20分
上越新幹線越後湯沢駅・上越線六日町駅と信越線犀潟駅を通る「ほくほく線・くびき駅」下車、車で5分
イラストマップ
わがむらわがまち作品展
燕の巣立ち
田植えが終わった頃燕が我が家にやって来る。
父母の代から燕が育って巣立つ家は縁起が良いと言われました。カラスや蛇や猫まで危険がいっぱいだ。家族中で育てないといけない。
やがて雛が育ち飛行訓練して大空に向かって巣立ちます。あの時の清清しい気持ちを大切にしたい。
郷愁誘うお宝集結
頚城鉄道の勇姿
写真は1965年5月12日撮影
場所は旧明治村 コッペル2号
撮影は梅村正明氏
「77頸城鉄道」より「(株)ネコ・パブリッシング」5月の透き通る空 はんの木とはさ木が見える風景
旧頚城鉄道の車両 上越に帰郷
かつて旧頸城鉄道(新黒井-浦川原)で活躍した車両が34年ぶりに頸城区百間町の旧機関庫で勢揃いして6月19日一般公開されました。
廃線後、車両を引き取った愛好家の息子で、前所有者の曽我部俊雄さん(55)=兵庫県芦屋市=は「頸城鉄道の車両は地元の文化。いつまでも大切にしてください。と帰郷を望んだのだ。
ドイツ製のコッペル2号は全国に2台のみ。「くびきのお宝を残す会」では豪農の邸宅や樹齢四百年のしだれ桜を再発見。「のこす会」では(下間一久会長)昨年、神戸市の六甲山中のトンネル内で大切に保管されていた。
八車両とレールなどを譲り受け、11月には会員やボランティアが現地に出向いて運び出し、地元に持ち帰った。副会長の村椿明さんは「夢はもう一度、走らせること。」と語った。
ここが久比岐の里
わたしが生まれ育ったふるさとは
久比岐平野は越後のはづれ 俺が生まれて育ったところ
草木豊かに土肥ゆる 我が母なる久比岐の里よ
俺はここに夢を育てる
久比岐の里より 作詞平澤栄一
米どころ新潟の南の端、上越、ここは古くから「久比岐(くびき)」「久比岐野(くびきの)」の名で呼ばれてきました。
一方を日本海、三方を米山や妙高など越後の山々に囲まれた田園の中にあります。四季折々に変わる米山や尾神岳と「ほくほく線」。そして雄大な妙高連山。日本海はすぐ近く、海の幸、山の幸、里の幸、この豊かな大自然に恵まれています。
米山
高田平野と刈羽平野の間にそびえ、秀麗な山容を見せています。
三階節で古くから親しまれ、信仰の山として山頂には米山薬師が祭られています。標高993m、登山ルートは5つ。
谷根ルートは猿飛橋を起点とした片道3時間30分のコース。
「♪米山さんから、雲が出た・・」米山甚句で有名な霊峰米山は、四季折々の雄姿で私達をいつも励ましてくれます。
ほくほく線
ほくほく線は新潟県六日町を起点として、日本一の大河信濃川を渡り日本海側の新潟県大潟町に至る延長59.5kmの第三セクターの鉄道です。
着工から29年の歳月を経て無事完了、平成9年3月22日に開通しました。
写真は在来線では日本一長い陸橋(約3.0km)を通過してる「ほくほく線」です。越後湯沢経由・金沢までのJR線も通ります。
田んぼのど真ん中を通るほくほく線は
農作業の疲れを癒してくれます。
大潟新田・・・我がふる里・美田の歴史
ほくほく線の陸橋は頸城村と大潟町に渡る圃場を分断する形で通過します。
今は30a区画に整備された美田こそ、その昔「大潟八千石」と称せられた大潟新田、約8000石です。ここは海抜ゼロメートルの所もある湛水地帯でした。大潟新田開発以来、天保六年(1835)第二回目の新堀川開墾完成まで、大潟180年の歴史は漫々たる湛水との苦闘の連続でした。
大潟悪水吐潟川の工事の最初は宝永七年(1710)です。しかし、潟川はしばしば排水の用を便じなくなり、大潟の湛水となりました。
自然凶作が続き農民は塗炭の苦しみを受けました。「潟端乞食」とはこうした農民を卑しめていう言葉になりました。
宝暦の新堀川開墾に尽力した、下増田新田大竹久左衛門、潟田笠原喜平次、寺田新田庄屋籐左衛門の話は今に残ります。
新堀川揚水機場のある大潟町犀潟には「潟守神社」があり、潟を守るために移住したとされる笠原、大竹姓の家が残ります。
二十四ヶ村が助かりました。その集落は、柳町・富田・寺田・岡田・上原・中柳町・下池田・上池田・中増田・下増田・大潟・米倉・稲原・泉・吉崎・潟町・岩野四ッ谷・上土底・中土底・下土底・下土底・蜘ヶ池・田村・須浜です。
妙高山
日本百名山のひとつで「越後富士」と呼ばれています。また古くから霊峰として、農耕に欠くことが出来ない水の神が宿る場所と考えられ、仏教の世界観で世界にそびえ立つ神聖な高い山「須弥山(しゅみせん)であると崇拝されてきました。妙高山の春の訪れを知らせる残雪の模様「跳ね馬」はあまりに有名。
雄大な姿は我が古里の父なる存在です。